Japan Society for Madagascar Studies / Fikambanana Japoney ho an'ny Fikarohana momba an'i Madagasikara
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<祖先の島>としてのマダガスカル

森山工 (東京大学総合文化研究科)

 わたしは、マダガスカル中央高地の北東部、アラウチャ湖周辺の農村地帯で、1988年から文化人類学的な調査に従事してきた。拙いながらもそこで折にふれて撮ったスライドを、日本で、あるいはマダガスカルで、これまでに何度か紹介する機会を得ている。写真は主として生活風景の断片をおさめたものである。村々の遠景、近景。水汲みや洗濯、買い物や料理など、農村の日常の一こま。雨季を通じて行われる一連の農作業、とりわけ稲作。割礼、婚礼、ファマディハナ(死者の遺体をいったん取り出し、布でくるみ直して再び墓に入れる儀礼)などの乾季の祭礼。聴衆は、日本人にせよマダガスカル人にせよ、多分に社交辞令まじりではあろうが、いたって好意的な反応を返してくれるのが常である。そうしたなかにあって、一人のマダガスカル人女性だけが、きわめて厳しい感想をわたしにつきつけた。今日の会は最低であった、と。

 それ以上は語ろうとしなかった彼女が、そのとき何を考えてそう断じたのか、その後もしばしば思いをめぐらす。写真があるテーマのもとに配置され、展示されるときには、写真を配置し展示する当人がどのような理解の枠組みをもってそのテーマに対峙しているのかということが同時にあらわとなるほかはない。あるいは、展示する側の意図とは別に、暗黙裡にではあれ見る側が理解の枠組みを独自に構築することもあるだろう。農村の生活風景を映し出したわたしのスライドが、マダガスカルの首都に生まれ育った彼女には苛立ちをしか感じさせないような理解の枠組みを示していたということなのだろうか。

 たとえば、農村と都市とを対置させ、それを単純に<伝統>と<近代>と読みかえてみると、農村は<伝統>の場であるという一つの理解の枠組みが生ずる。実際、スライド上映の後で聴衆(とりわけ日本人の聴衆)から返ってくる感想のうちもっとも典型的なものは、マダガスカルの伝統の豊かさに感銘を受けたという類の感想である。さまざまな祭儀に彩られた伝統文化の<豊かさ>−経済的な指標から測るかぎり世界最貧国の一つであるマダガスカルが、何にせよ<豊か>であるということは、確かに対照の妙を感じさせるものであるのにちがいない。

 このような理解を端的に示しているのが、ファマディハナの捉えられ方である。そこにおいてファマディハナはある価値を凝縮したものとして現れる。死者に対する畏れ、祖先に対する敬い、死後の世界への信頼、この世での家族と親族の団結。マダガスカルの文化を論じた概説書や研究書に繰り返し取り上げられ、雑誌記事やドキュメンタリーフィルムでもしばしば紹介されることを通して、ファマディハナはマダガスカルの伝統文化を代表する営みとして捉えられるようになっている。さらには、ファマディハナにかぎらずとも、生者が祖先と何らかの交流を果たすさまざまな慣行や儀礼に焦点を合わせることによって、祖先とのかかわりがもつ重要性がマダガスカルの伝統文化の本質的な要素であると捉えられるようになっている。<祖先の島、マダガスカル>というわけだ。

 このような理解は、マダガスカルの外部の人々がマダガスカルの文化について作り上げてきた定型的な理解であり、その意味でステレオタイプ化された理解である。その一方で、このような外部者の理解はマダガスカルの人々のなかにも還流しており、とりわけ彼らが外部者にマダガスカルを紹介する言説において枠組みとしてしばしば援用されるものでもある。だが、それがある意味において常識化しているものであるだけに、このような理解の枠組みそれ自体を相対化してみることは必要なことではあるのだろう。

 マダガスカルの首都で、初対面の初老の男性と話をしていたときのことである。わたしがマダガスカル文化の研究者であると知り、彼はわたしにマダガスカルの慣習の特徴は何だと思うかと尋ねた。初対面でもあり、相手との適切な距離をはかりかねてもいたところだったので、わたしは実に紋切り型の返事を返したものであった。祖先に対する敬意ではないでしょうか、と。すると彼はいったのである。祖先を敬わない人がいるものかね、と。いつだって、どこだって、形は違っても、誰だって祖先は敬っているのではないのかね、と。わたしは彼と真摯に向き合わず、おざなりに会話をやりすごそうとしたことを恥じた。つまり、相対化の一つの道筋は、<マダガスカル人だけが祖先を敬うわけではない>ということを意識化することなのである。

 さらにまた、<マダガスカル人は祖先を敬うだけではない>ということを意識化するのも、相対化への道筋の一つである。わたしが知るマダガスカルの人々は、生活上のさまざまなことがらに喜びや悩みを感じており、主要な関心事も、仕事のことや子供の教育のことやトラクターのローン返済のことであるなどしていて、いつでもどこでも祖先のことだけを考えているわけでは決してないからである。

 <マダガスカル人だけが祖先を敬うわけではない>といい、<マダガスカル人は祖先を敬うだけではない>といい、いずれもマダガスカル人が祖先を敬うということそのことを否定しているわけではない。祖先を敬うということ(だけ)に、マダガスカル人(だけ)を閉じ込めるというステレオタイプを相対化しているのにすぎない。これらは、祖先に対する敬意がマダガスカルの伝統文化の本質的な要素であるという理解を、いわば外側から相対化するものであるが、他方でこの理解が対象としているものの内実それ自体と取り組み、それを内側から相対化する道筋も考えてみることができる。

 わたしが調査してきた地域では、例年乾季ともなれば各所でファマディハナが執り行われる。現地の人々みずからが、ファマディハナはこの地域の伝統文化であると語る。だが、調査を進めてみれば分かることだが、この地域でファマディハナが一般化し出したのは1970年代以降であり、独立後この地域に多数移住してきた中央高地中心部のメリナ系入植民の慣行に影響されてのことであって、それ以前にこの地域でファマディハナは行われていなかったのである(森山 1996: 39-40)。したがって、この地域にかぎっていうならば、いかに現在の当事者たちがそれをみずからの<伝統>として語ろうとも、その起源は思いがけなくも近いところにあるといえるのだ。

 また、マダガスカルの人々が祖先を敬うことに関しては、マダガスカル人は生者の家にお金をかけるよりも死者の墓にお金をかけるという言い方がしばしばなされる。しかしながら、たとえば中央高地の一帯で今日頻繁に目にすることのできる、石造り、セメント造りの巨大で壮麗な墓は、19世紀に英仏の技術者が持ち込んだ建造術がその発端にある。とりわけ、メリナ女王Ranavalona1世(在位1828-61年)の治世下、宰相Rainiharoとその一族のために、女王の技術顧問であったフランス人Labordeが指揮して首都のIsotry地区に建築した、一辺が20メートルにもなろうという巨大な矩形の霊廟が、その後の中央高地における墓の形態のモデルとなった。<墓に見える富やよし(Tsara ny haren-kita fasana)>などという諺とともに、墓に富の象徴としての意義が見いだされるようになるのもこれ以降のことである(Molet 1979: 271-272)。したがって、建造物としての形態を備えた墓の登場と相俟って、墓に資産を投下するという行為が一般化し出したのは、たかだか19世紀の中葉以降、それもヨーロッパに由来する技術的な影響に触発されてのことなのである。

 もちろん、だからといって、やはりマダガスカルの人々が祖先を敬わない人々であるということにはならない。また、わたしはそう主張したいわけではない。ここでは、祖先への敬意がマダガスカルの伝統文化の本質的な要素であるという理解がなされていることを受けて、その<祖先への敬意>を示すとされる営みのあるものが実際にはいかに起源において新しく、<伝統文化>ということばから想起されるような過去からの連綿たる継承という観念にそぐわないものであるのかを示すことによって、この理解の枠組みを相対化しようとしているにすぎない。問題は、マダガスカルの人々を祖先への敬いという常套句に一元的に囲い込むことにあるのである。

 さらに、<伝統>を<近代>に対置し、<近代>ならざるがゆえの肯定的な価値(<伝統文化の豊かさ>)をそれに付与する論法は、<伝統>と<近代>との対置というまったく同じ議論の構図に依拠しつつ、それとは逆の否定的な価値づけを<伝統>に付与する論法と、論理的には等価とならざるをえない。そして、否定的に価値づけられたこのときの<伝統>は、今度は<近代>が代表する文明の対極にあって、その文明から取り残された野蛮な旧習の残滓となるのである。

 たとえば、祖先への敬いからはいったん話がそれることになるが、割礼に対するある種の人々の態度にこのような価値づけをみることができる。割礼がいかに伝統的な慣習であるとはいえ、それは幼児に不必要な傷を負わせるものであり、精神面でもトラウマを与える可能性がある以上、虐待に類することがらではないかというのがその論拠である。想像されるように、このような立場をとる人たちには高等教育を受けた都市生活者が多い。また、わたしは直接に調査をしたわけではないが、一部のフランス在住のマダガスカル人夫婦のあいだでも、生まれた子供に対して割礼を忌避する態度がみられつつあるという。人権や人間性の尊重という論理のもとに、割礼が忌むべき、そしていずれは消え去るべき伝統との価値づけを得るとき、それは近代的な理念との対置において前近代的な何ものかを代表するものと捉えられているのである。

 そして、同様の事態は、祖先をめぐる儀礼的な営みにも当てはまるのだ。たとえば、わたしの調査地では、キリスト教の信仰を強く内面化した人々のなかに、ごく少数ながらファマディハナとは距離をとろうとする人がある。また、やはり熱心なキリスト者である首都のわたしの知人のなかには、自分の親たちに対してファマディハナを執り行うのはやむを得ないこととしながらも(なにしろ生前の彼らは、自分たちが死後ファマディハナを施してもらうのを当然のこととして期待していたのだから)、自分自身が子や孫たちからファマディハナを施されることを嫌がる人がある。彼らがその理由として語るのは、死後、自分の遺体が墓から引きずり出され、かつぎ回される場面を想像したときに、我がこととして感じずにはおれない<おぞましさ>である。それは、<安らかな眠り>とは相容れない事態と捉えられているようである。いずれにせよファマディハナは、キリスト教的な倫理観にてらして忌避されるべきこととされるのである。

 あるいはまた、経済的な合理性にてらして祖先を敬う儀礼的な手続きに異議をとなえる人もある。わたしの調査地では、あるいは首都でも、ただでさえふだんの生活が苦しいのに、石造りの墓やファマディハナに多大な出費をするのは理不尽ではないか、といった思いを周囲に吐露する者が、とくに若い世代にあった。<近代>が要請する経済性に依拠するならば、祖先への敬いを儀礼的に示す事物や行為のあるものは過度にバランスを欠いたもの、より簡素化されるべきものとうつり、そのかぎりで否定的な価値づけを得るのである。そして、以上のように、現行の墓や葬制に対して部分的にではあれ何がしかの距離をおこうとする人々にとっては、石造りの豪華な墓やファマディハナがマダガスカルの伝統文化の本質的な要素をなすものであると提示することが、マダガスカルの文化的な後進性をことさらに強調し、マダガスカル人を前近代的な野蛮の領野に囲い込む行いとうつるであろうことは、想像に難くないのである。

 グリーンブラットは、アステカ人と出会った際のスペイン人の他者認識について次のように論じている。夢にさえ見たことのないもの、絶対的な他者なるものは、おそらく認識することさえできず、そのためそれを表現し、伝達することは端的に不可能である。すなわちそれは、表象の危機を惹起する。そのような危機に瀕しつつ、しかしながらスペイン人は、自分たちに手持ちの概念体系を他者の事物や行為のなかに転移することによって、それらを同定し(あれは<神殿>である、<祭壇>である、<十字架のごとき象徴>である、といったように)、そうすることで他者に自己との相同性を読み込み、自己との相同性のうちに他者を<封鎖>したのである、と(グリーンブラット1994: 207-213)。

 いいかえるなら、スペイン人の他者認識は、はじめて見る他者に既知のものを投影することによって可能となる認識だったのである。それは、ことばの厳密な意味での<認識>(フランス語でいうところの"connaissance")ではなく、むしろ<再認>(フランス語の"reconnaissance")と呼ぶべきものなのだ。もちろん、現在のわれわれにとってのマダガスカル人は、16世紀のスペイン人にとってのアステカ人とは違い、はじめて見る他者ではない。だが、われわれがマダガスカルの人々の営みのうちに祖先への敬いという<伝統文化>のみを見続け、<伝統>とされた要素の内実や、<伝統>に対する当事者自身の意味づけのあり方や、必ずしも<伝統>のみにとらわれるものではない彼らの日常的な営みの多様性に目を向けることがなければ、われわれはあらかじめ知られている理解の枠組みをもってのみ彼らに対しているのであり、既知のものを彼らのなかに<再認>しているにすぎないのである。そして、そのときマダガスカル人は、祖先を敬う人々というわれわれの側からの理解の枠組みに<封鎖>されるのだ。

 しかしながら、さらに考えておかねばならないのは、このような既知の枠組みの転移による他者認識が決して特異なものではなく、いつでも誰でもがおちいる可能性のあるものであり、さらには現にいつでも誰でもが行っているものだということである。リップマンは、ステレオタイプについて論じた古典的な本のなかで、次のようにいう。人が日常生活において出会うさまざまな事態を、その都度自分自身の新鮮な眼によって捉え、吟味しようとすると、多大な精神的なエネルギーが必要になる。既成の理解の枠組みをもって外界の認識に当たることは、その理解の枠組みに適合する部分のみに注意を向けることではあるが、そうすることによってそれ以外の部分に注意が向けられることがあらかじめ避けられ、外界認識に当たって精神的な労力が軽減されるという経済化の効果が得られるのである、と(リップマン1987)。たしかに、既成の枠組みに依拠することなく、その都度みずからの眼で外界を把握し、吟味しようとすれば、足を一歩踏み出すためだけにも足下のアスファルトの固いことをいちいち確認しておらねばならないこととなり、そもそも通常の日常生活それ自体がなりたたない仕儀におちいる(哲学的な認識論における懐疑論は、まさにこうした状況の戯画である)。だが、いずれにせよ人間の認識が既成の枠組みからのがれえず、その意味で多少なりとも<再認>たらざるをえないからといって、既成の枠組みを無批判に受け入れることをよしとする開き直りが正当化されることにはならない。とくに、ものいわぬアスファルトと違い、生身の人間が対象である他者認識の場合には。

 2000年2月13日に民放系で放映されたドキュメンタリー、「海を駆ける民−マダガスカル・小さな島の家族」は、マダガスカル南西海岸部のヴェズと呼ばれる人々の一家族を描き出している。総勢17人の家族が、乾季のあいだ村を離れ、沖合の小さな島に移り住む。男たちはカヌーを駆りつつ海で伝統的な漁撈活動に従事し、女たちは煮炊きや浜辺での採集活動に従事する。自然の懐にいだかれ、神と自然への敬虔な思いを忘れず、自然の豊かさに寄り添いつつ糧を得る。近代化が徐々に押し寄せる時代の波に抗して、そのような生活をかたくなに守る彼ら彼女らの誇り高さ。番組中、映像やナレーションや字幕を介して視聴者に提示されるキーワードは、<生き方>、<恵み>、<祈り>、<家族>である。これらは何度も繰り返して提示されることによって(そしてオープニングとエンディングに朗読される詩や情緒的なバックミュージックに補完されることによって)、ある特定の人々の生活について実に首尾一貫した像を提起しており、その首尾一貫性のゆえに番組はきわめて強力な説得力を発揮するものとなっているのである。

 だが、<近代>との対置において<伝統>を提示する語法は、われわれにはすでに馴染みの語法だったのではないだろうか。とりわけ、近代化に逆らいつつ、しかし神と自然には逆らわず、近代化がもたらす利便性に背を向けて素朴な生活スタイルを堅持する、そういう意志の崇高さというテーマは、われわれのうちに強力な言説の磁場を形成してきたのではなかっただろうか。それは、伝統文化としての祖先への敬いというテーマがそうであったように、<近代>との対置で<伝統>を肯定的に価値づける理解の枠組みの代表的な一変種なのであり、そういうものとしてわれわれにはすでに馴染みのものだったのである。たしかに、マダガスカルのヴェズの、さらにはその一家族は、われわれに目新しいものであるかもしれない。だが、その目新しさは、われわれが既知の理解の枠組みを、その有効性を疑うことなく転移したときから、単に枠組みに現実味を加味し、枠組みをより正当なものと見せるだけの一事例にすぎなくなる。そのときわれわれは、ヴェズの一家族の姿に既知の何ごとかを<再認>し、そこに彼らを<封鎖>するのである。

 しかも、そのような既知の枠組みに無意識的にであれ固執することによって、対象とされた人々の言動のある側面は歪曲され、ある側面は端的に見えなくなる。これについては、現地の事情に通じ、番組で主要な取材対象とされた男性その人をよく知る飯田が詳しい検討を加えている(飯田2001)。たとえば、この男性がカメラに向かって語るシーンのなかには、日本語の字幕で読むと、みずからの生活への思い入れと誇りとが熱く語られているように見えるのに(もちろんそこには、番組のいわゆる彼らの<生き方>が暗示されているのだ)、男性の実際の語りをマダガスカル語ヴェズ方言に通じた者が聞けば、単に自身の生活が第三者的な視点から冷静にたんたんと語られているだけにしか見えないような場面が散見される。また、この男性が近代化の波にあらがうどころか、時代を見越して村でいち早く貨幣経済に適応し、むしろ時流にのろうとした一面をもつ人物であることは、視聴者には端的に情報として与えられていない。したがって、ここに提示されている生活も、おそらくはこの男性がその生活史において実践してきた戦略の多様性や、状況に応じた選択の多様性(それは番組の示唆する小綺麗な首尾一貫性からこぼれ落ちたものである)を捨象し、ある一面的な既成の理解の枠組みにそれを<封鎖>するもの、あるいはそうすべく編集されたものであったといえるのである。

 もちろん、グリーンブラットがいうように、絶対的な他者が原理上認識することさえできないものであるのなら、また、リップマンがいうように、既成の理解の枠組みをもって対象の認識に臨むことが認識という営為にとって実際上必要なものであるのなら、既成の理解の枠組みをすべて無にした状態で対象に臨むこと、つまりは<再認>の過程を排して厳密な意味での<認識>に到達しようとすることには、原理上と実際上と、双方の面からの困難が生ずる。だが、だからといって開き直るのでなく、みずからの枠組みを折りにふれてでも相対化し、ある一面的な姿のみに他者を<封鎖>するという隘路からのがれようとする努力を怠るべきではない。たとえばそれは、みずからの枠組みからはこぼれ落ちてしまう他者存在の多様なあり方に敏感たるようつとめることである。あるいは、手持ちの枠組みのレパートリーをふやすことにより、さまざまな視角から他者を対象化できるようつとめることである。そしてまた、われわれが他者を類型化しているばかりでなく、他者の側でもわれわれがそうするのとまったく同じレベルにおいてわれわれを類型化し、あるステレオタイプにわれわれを<封鎖>しているという事実に気づくことである。

 日本に短期滞在したあるマダガスカル人男性を数日自宅に泊めた知人から、次のような話を聞かされたことがある。日本滞在中、そのマダガスカル人男性は、日本の家庭の多くが自家用車をもち、どの家にもテレビ、ステレオ、エアコン、冷蔵庫などといった家電製品がそろっていることに言及しつつ、日本人は金持ちだとことあるごとに繰り返したのだという。知人は、たしかにマダガスカルと比べれば日本は全体としては豊かなのではあろうが、一つひとつの家庭を見れば、住宅ローンをはじめとする各種のローンをかかえたり、子供の教育問題に頭を悩ませたり等々と、決して皆が安楽な生活を送っているわけではないと説明した。だが彼は、そんなことはないでしょう、みなお金持ちで生活は裕福でしょう、と繰り返すばかりだったという。いくら話してもこちらのいうことが理解してもらえず、最後にはどうしようもなく悲しくなってしまった、と知人はいった。その<悲しさ>とは、まさしく<封鎖>された者の悲しさであったにちがいない。日本人は金持ちであるという枠組みは、このマダガスカル人男性に対し、日本人のあいだでの個人差や、特定の日本人が折々にもつ生活実感の多様な側面や、ひいてはマダガスカル人にとっての金持ちと日本人にとってのそれとのあいだの概念差を見えなくさせるほど強力に作用したのだ。それゆえ、わたしの知人もこの枠組みに<封鎖>されるほかはなかったのである。

 そうであるから、自分が他者に<封鎖>されているさまに想像力を馳せることで、自分が他者を<封鎖>することの可能性に改めて気づかされるのであろう。スライド上映の後、今日の会は最低だったと断じたくだんのマダガスカル人女性は、わたしが配列して提示したスライドに、<封鎖>されたマダガスカルの人々の姿を見たのではなかっただろうか。人類学者が他者認識にかかわるこのような困難から無垢でいられるわけでも、それから超越していられるわけでもないということをわたしに改めて教えてくれた、それは一言だったのである。

【文 献】
グリーンブラット、S.『驚異と占有−新世界の驚き』荒木正純訳、みすず書房、1994年[原著:Stephen Greenblatt, Marvelous Possessions: The Wonder of the New World, Oxford: Oxford University Press, 1991]
飯田 卓「イメージの中の漁民−ある海外ドキュメンタリー番組の分析」『民博通信』92号、2001年、81-95頁
リップマン、W.『世論』(上下)掛川トミ子訳、岩波書店(岩波文庫)、1987年[原著:Walter Lippmann, Public Opinion, New York: Macmillan, 1922]
Molet, Louis, La conception malgache du monde, du surnaturel et de l'homme en Imerina, tome 2, Paris: L'Harmattan, 1979
森山 工『墓を生きる人々−マダガスカル、シハナカにおける社会的実践』東京大学出版会、1996年

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