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「ヌシ・ベに凝縮される19世紀インド洋西海域世界」

鈴木 英明 (日本学術振興会特別研究員)

はじめに[1]

ヌシ・ベ(Nosy Be)はマダガスカル北西部に浮かぶ、南北に約30キロ、東西に約20キロメートルの非常に小さな島である。マダガスカル本島そのものとも、近いところだとわずかに10キロ程度しか距離を隔てていない。このヌシ・ベを題材として取り上げる本報告は、一国史を超えたより広域の歴史のなかにマダガスカルをどのように位置づけうるのかという観点から構想された事例考察である。ヌシ・ベの歴史については、これまでに幾つかの先行研究がある。代表的なものとしては、 [Decary 1960] がフランスによる同島の植民地化を取り扱っており、また、 [Monnier 2006] が近年にいたるまで同島の最重要産業であったサトウキビ・プランテーションに焦点を当て、1848年の奴隷制廃止後に導入された契約労働者制に関する議論を展開している。ヌシ・ベに関する歴史事象は、このように、フランスによるマダガスカル植民地化の一齣として同島を取り扱うなかで取り上げられるか、あるいは、概説的な一国史としてのマダガスカル史を扱う研究書のなかで断片的に触れられるかに過ぎなかった。

これに対して、本報告が試みたのは、この島を後述するインド洋西海域世界の枠組みのなかに位置づける作業である。そこで特に注目する事例が、上述の先行する諸研究の枠組みのなかですでに重要性を認められてきた1841年のフランスによる同島の保護領化であり、そして、その後のこの島の変貌である。なぜならば、上述の研究枠組みのなかですでに一定の評価が与えられているそれらの事象を、インド洋西海域世界というより広域を対象とする別の枠組みから捉えることで、従来の枠組みにおいて、どのような側面が捉えきれていなかったのか、また、インド洋西海域世界という枠組みがいかにしてマダガスカル(の一部)を捉えうるのか、こうした点を効果的に提示することにつながるだろうと考えたからである。

インド洋西海域世界の概観

 ここでいうインド洋西海域とは、その西端を東アフリカ沿岸部に、東端をインド亜大陸西岸に、それぞれ求めたそのあいだの海を指し示す。この海における人間の往来は、紀元後1世紀半ばごろに成立したとされる『エリュトラー海案内記』によって広く知られているように、きわめてはやい時代から、連続的に行われてきたと考えられている。こうした長期的でかつ、継続的な交流は、根本的に2つの自然要因によって形成・維持されてきた。ひとつは、この海洋の周縁を取り巻く多様な自然生態環境であり、もうひとつは、季節風モンスーンである。第一点目についていえば、たとえば乾燥地帯がアラビア半島から現在のパキスタンのマクラーン(Makran)地方を経てカッチー(Cutch)地方に連なっている一方で、東アフリカ沿岸部や南西インドでは、後述するモンスーンによって豊富な雨量がもたらされる。また、アフリカの角周縁には半乾燥地帯が存在する。さらに、キャラヴァン交易による沿岸部と内陸部との交流関係に着目すれば、たとえば、アフリカ内陸部のサバナ地帯やイランの高原部などもインド洋西海域を取り巻く多様な自然生態環境の一環に含めることができるだろう。インド洋西海域は、こうしたそれぞれの自然生態環境のもとに生きる人々が、自らの地域では充足できないモノを互いに交換しあう交通路としての役割を担った。一例を挙げると、オマーン湾やペルシア湾の周縁の乾燥地帯では、建材に利用しうる樹木がほとんど存在しない。したがって、この地域の人々は建材の入手を東アフリカ沿岸部に拡がるマングローヴ林に依存した。この事実は、文献からも、また、考古学調査からも確認されている。一方で、東アフリカ沿岸部は、オマーン湾、ペルシア湾からの航海者たちから塩や塩干し魚を買い求めた。オマーン湾、ペルシア湾では、天日による製塩が可能である一方、アフリカ大陸の内陸部には近隣に塩の入手源を持たない地域があり、東アフリカ沿岸部に運ばれた塩や塩干し魚は、そうした人々と沿岸部の人々との交易において活用されていたのである。また、沿岸部の人々も20世紀前半の記録によれば、交易が停止するなどの非常時以外には、塩の獲得は輸入に依存していたという[2]。こうした交換によって遂行される異なる自然生態環境間の相互補完関係は、季節風モンスーンによって、規則的に行われていた。季節風モンスーンは、およそ11月から3月までは北東からこの海に吹き込み、他方で、5月から9月まではその逆の南西からこの海に吹き込む。すなわち、この2つの風を利用することによって、航海者はこの海を規則的に往復航海することができた。インド洋西海域世界では、このように海を中心として、多様な自然生態環境間がさまざまな相互補完的な交換を季節風モンスーンに依拠しながら定期的に継続させてきた。そして、こうした継続的な相互補完的な交換活動は、物資の交換だけに留まらず、物資の交換自体は生活文化の共通性を導いた(たとえば、マングローヴが東アフリカ沿岸部、オマーン湾・ペルシア湾周縁でともに一般的な建材として家屋の根太や垂木として用いられることで、双方の地域の家屋の部屋当たりの大きさはほぼ共通するようになった)し、定期的な往復活動が継続することで、この海域世界に暮らす人々の間に生活習慣など海を跨いだゆるやかな共通性が育まれていった。

ヌシ・ベの概観

前節で述べたさまざまな交換が縦横無尽に海を中心にして拡がっている状態は、しばしばネットワークとして理解される[3]。では、このネットワークにヌシ・ベがいつ頃から、どの程度組み込まれていたのかという疑問が生じるが、これについて明確な解答をすることは、文献、ないしは考古学的な資料がほとんど無いために極めて難しい。現在、この島について最も早く言及した文献のひとつとしてみなされているのが、イギリス東インド会社の社員であったニコラス・バカリッジ(Nicholas Buckeridge)の17世紀中葉の日誌と書簡[4]である。これらは、対岸のモザンビークや現在のケニア北東部のラム(Lamu)群島のパテ(Pate)とヌシ・ベとの交易を伝えている[5]。1663年7月15日付のバカリッジによる書簡には、ヌシ・ベからパテへは砂糖や糧食(provisions)が運ばれていたが、その規模は小さいと書かれている[6]。また、バカリッジの日誌および書簡を校定したジェンソン  (J. R. Jenson) によれば、バカリッジによってアッサダ(Assada)と呼ばれたヌシ・ベは、17世紀のイギリスによる地図類にはほとんど現れることはないが、例外的にチャールズ・ワイルド(Charles Wylde)の1650年から1652年にかけての航海日誌にはヌシ・ベに関する記述や地図が残されているという[7]。また、19世紀前半に東アフリカ沿岸部やマダガスカル沿岸部を調査したイギリス海軍のボテラー (Thomas Boteler) は、ヌシ・ベ周辺について「どこにも私は廃墟の痕跡を見つけることができなかったし、文明人がかつてそこに定着していたことを指し示すものも何もなかった」[8]と述べている。近年、考古学者による試掘がヌシ・ベで行われているが、そこから導き出される見解も、ボテラーのそれとほとんど変わらない[9]。 このように、ヌシ・ベの19世紀までの足取りを伝える資料が極めて断片的であるために、それをたどることは極めて難しく、また、そうした断片的な資料もこの島がインド洋西海域世界のネットワーク構造に深く組み込まれていたことを証明するものでは必ずしもない。ただし、この島が良港としての資質を備えていたこと――すなわち、上記のネットワーク構造のなかに深く組み込まれうる潜在的な可能性を秘めていたこと――は確かである。たとえば、上に引用したように、ボテラーは、ヌシ・ベ周辺について「廃墟の痕跡」も「文明人がかつてそこに定着していたことを指し示すもの」も見つけることができなかったが、他方で、ヌシ・ベについて次のような評価を下している。

ヌシ・ベの肥沃で美しい光景に触れずしてパッサンダヴァ(Passandava、アンパスィンダヴァAmpasindava湾を指す)の記述を終えることはできない。(中略)深い湾と入り江の連続で海岸線は変化に富み、それらの殆どは一年を通して秀逸な停泊地を提供する。(中略)

潮流の荒いモザンビーク海峡の入り口という地理的位置において、幾つもの天然の入り江を有するヌシ・ベは、良港としての資質を持っていたといえる。良港であるという点については、たとえば、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも触れられているように、日露戦争の際、対馬沖海戦(日本海海戦)に向かう途中のバルチック艦隊が寄港した事実からも理解できるだろう。そして、実際に、この寄港地としての資質が後述する保護領化の要因にもなっていた。

写真1

地図1:
ヌシ・ベおよびアンパスィンダヴ湾 中央上の島がヌシ・ベ。[Noulens 1921, n.p.] より転載。

1841年―フランスによる保護統治の開始―

フランスは、1814年、ナポレオン戦争に関する講和条約(パリ条約)をイギリスと締結した。これによって、ブルボン島(Bourbon、現在のレユニオン島)の所有をイギリスから認められ、そこをインド洋西海域における軍事・通商の拠点としていた。けれども、ブルボン島の主要港であるサン・ドゥニ(Saint-Denis)は、外海に面しており、港としての利便性には優れていなかった。また、ブルボン島の主要な産業であるサトウキビ栽培は、奴隷労働力によって担われており、アフリカ大陸からの労働力の確保を継続する必要もあった。これらの事情から、アフリカ大陸東岸からブルボン島までのあいだに、寄港地として、また、奴隷輸送の中継地としても用いうる新たな拠点をフランスは求めていた。こうした事情を抱えるフランスに自らの保護を求めてきたのが、当時、ヌシ・ベにいた女王ツィウメク(Tsiomeko)以下のサカラヴァ(Sakalava)の人々であった。イメリナ(Imerina)王国の伸長に対して、後述するように万事休していたサカラヴァの人々の申し出に、フランスは応諾し、1841年、ヌシ・ベはフランスの保護領となった。

従来の枠組みであれば、ヌシ・ベがフランスによる保護統治下にはいった事実そのものが重要なのであり、上の点に触れるだけで十分なのかもしれない。しかし、より広い枠組みでこの事実をとらえようとする場合、当然ながら、それだけでは不十分である。実際に、フランスの保護統治の背後には、以下に述べるような、インド洋西海域を舞台とした多様な主体たちが織りなす複雑な政治状況が存在していた。

まず踏まえるべきは、17世紀末からはじまるブイナ(Boina)と呼ばれるサカラヴァ王国群の伸長である。19世紀初頭の段階で、それはヌシ・ベの対岸までに拡大していた。これに対して、ラダマ(Radama)1世率いるイメリナ王国の拡大が19世紀初頭以降に進展していく。最終的に本島全土に拡がっていくこの拡張[10]は、次第にブイナ王国群の領域をも侵食しだし、1838年、ブイナ王国の一部がヌシ・ベに逃避行をする。

このような状況下、ツィウメクらサカラヴァの人々が支援を求めたのが、当時、ザンジバル島に拠点を築きつつあったブー・サイード(Bū Sa‘īd)朝のスルターン、サイード・ビン・スルターン(Sa‘īd b. Sultān)であった。イギリス、サリー州の国立文書館には、ツィウメクの使節としてザンジバル島を訪問した“Aheeko bin Bytuk”と“Boobah bin Funhansh”とそれぞれ名乗る人物とサイードとの間で結ばれた約束の内容を伝える書簡[11]が所蔵されている。それによれば、ツィウメクは自らの領土のすべてをサイードに差し出し、かつ、サカラヴァ一人当たり1MT$ (マリア・テレージア・ターラー、19世紀にインド洋西海域で広く流通していたオーストリア銀貨) を支払い、しかも、サイードの求めに応じて要塞を築く準備ができていること、さらには、5%の輸出入税を自分たちから徴収する権利をサイードに与えることが記されている。しかし、サイードはこの申し出を受諾こそしたものの、派兵をすることはなかった。

サイード・ビン・スルターンが援軍を派遣しなかった理由は、ふたつある。ひとつは、ブー・サイード朝自体の軍事力の虚弱さである。1820年代後半にオマーンのマスカト(Muscat)からザンジバル(Zanzibar)島に拠点を移したサイードは、その後、東アフリカ沿岸部での支配を確立するために、モンバサ(Mombasa)のマズルイ(Mazrui)王朝やラム群島のナブハニ(Nabhani)朝などと繰り返し武力衝突を繰り返していた。こうした状況のもと、新たに戦線を拡張することができなかったというのが理由のひとつである。もうひとつは、サイードの報告に対してイギリスが返答を保留し続けたことにある。サイードがその治世を通して、イギリスとの関係を深めていたことは、よく知られている[12]

イギリスにとって、1830年代後半の時期は、マダガスカルを含むインド洋南西部の情勢について、以下に述べるような状況下、きわめて慎重な対応を取らざるを得ない時期であった。すなわち、マダガスカルのイメリナ王国では、親英的な立場を採っていたラダマ1世が、イギリスによる植民地化をおそれて、その治世期の末期にそれまでの立場を転換し[13]、その死後、1828年に即位したラナヴァルナ(Ranavalona)1世もこの立場を踏襲する[14]。この女王は、より一層強い反キリスト教政策を採り、それはイメリナ王国とイギリスとの関係にも大きな影をおとした。たとえば、ラダマ1世の治世期に結ばれたイギリスとマダガスカルとの間の友好通商条約が実質的に破棄され、布教の禁止やヨーロッパ人の滞在の制限などの政策が実行された。ただし、ラナヴァルナ1世のこれらの政策は、決して対外的な交流を一切断ち切ろうとするものではない点には留意しなくてはならない。すなわち、たとえば、この女王は1836年に6人の使節らをロンドンとパリに送り、英仏との交易の再開を求めた[15]。この使節派遣による成果はほとんどなかったものの、このように、イメリナ王国との関係はラダマ1世以降の政策転換以降も完全に断絶したわけではなかった。また、イメリナ王国を巡って対立的な関係にあったフランスとも、1814年のパリ条約によって、ようやくナポレオン戦争後の関係が定まりつつあり、特にモーリシャス島およびブルボン島の領土問題もこの条約によってようやく双方の間で解決をみたばかりであった。

こうした事情から、イギリスはヌシ・ベの所有を主張するサイード・ビン・スルターンに与することはなく、一方のサイードはイギリスの支援なくして戦線をこれ以上拡張することができなかった。このように、フランスによるヌシ・ベの保護領化は、単純にマダガスカル内部の事情とフランスの事情とを突き合わせれば理解できるものではない。むしろ、ヌシ・ベを取り巻くこのような一連の錯綜する政治的状況を踏まえることで、フランスによるヌシ・ベの保護領化は理解されるべきであろう。

保護統治下のヌシ・ベとインド洋西海域のネットワーク

このようにしてヌシ・ベの保護統治を開始したフランスは、軍事・交通・生産の拠点としてヌシ・ベの開発を進めていった。この点に関する詳細は、冒頭で紹介したヌシ・ベに関する先行研究に詳しいので、ここでは触れない。ここで重要なのは、大規模栽培される砂糖やコーヒーなどといった商品作物が整備された港から積み出されることで、この島が欧米の市場と密接な関係を持ち始める一方で、同時にそれがインド洋西海域世界のネットワーク構造のなかにも取り込まれていった事実である。図1は、フランス、エクサンプロヴァンスにあるフランス海外領土文書館(Centre des Archives d'Outre-Mer, Aix-en-Provence, France)所蔵の文書MAD/290/716に基づいて、ヌシ・ベに来航した船舶数を年代順に並べたグラフ[16]である。

図1:
ヌシ・ベ来航船数

図1

これを参照すると、たとえば、保護統治開始直後の1843年には79隻の寄港に留まっているのに対して、その13年後の1856年には、1843年の3倍強の265隻が寄港していることがわかり、ヌシ・ベの寄港地としての重要性の飛躍的な高まりをよく理解することができる。これらの寄港船のなかには、マルセイユなどの港からやってきた船もあれば、アメリカの捕鯨船も含まれている。しかし、注意すべきは、マダガスカル島の港との往来をする、あるいは、ザンジバル島やボンベイ(Bombay、現在のムンバイー Mumbai)といったインド洋西海域の諸港との往来をする非欧米船が多く含まれている点である。これらの船は、一方でヌシ・ベから砂糖や牛、牛革などを運びだし、他方でこの島に穀物や契約労働者などをもたらした。たとえば、1843年から翌44年までの間、ヌシ・ベに来航した船舶総計129隻のうち、「アラブ船」として記録されているのは、全体の約65パーセントの84隻にのぼる。文書には、「アラブ船」のほかのカテゴリーとして「フランス船」、「イギリス船」、「ポルトガル船」があるが、特にフランス船のなかには、ヌシ・ベや、やはり1843年に保護領化されたマイヨット島の船も含まれている点を考慮すれば、非欧米の、すなわちインド洋西海域世界の「ローカルな」船の比率は実際には先述の数値よりも高いと想定してよいだろう。

従来のインド洋海域史の文脈では、15世紀末にポルトガルがインド洋航路を開拓して以降、17世紀ごろに本格化しだすイギリス、オランダ、フランスの各国東インド会社のインド洋進出と領域支配的な拠点形成が、インド洋における既存のネットワークの崩壊を導くものとして理解されてきた[17]。しかし、上に述べた「アラブ船」の数が物語るように、そうした理解が必ずしも正しいとはいえない。たとえば、ザンジバル島のイギリス領事館が本国に送った書簡のなかには、Nabeli ibn Nuveliという人物から Sheik Khamis bin Oozmanという人物に宛てられた次のような書簡が記録されている。

前略
友よ、Noosbeh島に大王(=フランス王)の軍勢がやってきて、駐屯している。(中略)親しき友よ、もしお前がNoosbehにとどまることを選ぶならば、神がお喜びになるのならば、それはお前にとって都合の良いことになるだろう。なぜならば、フランス人は周辺の地域の事情を持っている人間がいないのに対して、お前はそういうことについて精通しているからだ。(後略)
NAUK FO54/4/64-65

この書簡が書かれたのは、1841年の3月10日、すなわち、フランスによるヌシ・ベの保護が宣言された1841年2月3日から僅かにひと月も経っていない頃なのである。このほかにも、ハルファン・ビン・アリー(Khalfan bin Ali)という、欧米商人を相手に仲介業を営んでいたマジュンガ(Majunga)の代表的な商人もヌシ・ベに移動してきたことが文献から確認できる。このように、フランスによるヌシ・ベの保護領化、およびそれに伴う軍事・交通・生産の拠点化の進展は、メリナやサカラヴァといったマダガスカルの人々、フランス、あるいは西欧の人々たちのみに影響を及ぼすのみでなく、インド洋西海域の「伝統的な」ネットワークに生きる人々にも影響を与えていたのである。その結果、インド洋西海域でコレラが席巻すれば、その波は1858年をはじめ、幾度もヌシ・ベにも襲いかかったし、また、19世紀の末に至っても、ヌシ・ベではマダガスカルにおいては例外的に、インド洋西海域世界で広く流通するインド・ルピーが通貨として用いられていた。

地図2

地図2:
ヌシ・ベ 筆者作成

こうしたインド洋西海域のネットワークの担い手たちは、フランス側にとっての拠点港であるエルヴィル(Hell-Ville)の東、現在はマルドゥカ(Marodoka)と呼ばれる港を拠点とした。1845年にヌシ・ベに来航したアメリカ、セーラムの商船ラ・プラタ(La Prata)号の乗組員であるウィリアム・シュローダー(William Schloder)の日誌[18]に描かれた地図では、この港は“Banasoon”と記されている。報告者が2008年1月に当地を訪れた際には、マルドゥカは港としての機能をほぼ失っていた。昼下がりに訪れた報告者の眼前には、引き潮で干上がった湾に一艘のアウトリガー・カヌーとうち棄てられ、朽ちかけた1隻のダウ船が横たわっているだけであった。

また、現在は小さな村となっているマルドゥカには、いまも村の住民たちによって利用されているモスクのほかに、基礎とミンバルMinbar(説教壇)、壁面の一部しか残っていないモスク、かつての邸宅と思しき廃墟が残されており、さらには、村の北東の斜面には無数の墓が散在している。墓のなかには刻文の施されているものもあるが、状態が悪く、解読するのは極めて難しい。邸宅と思しき廃墟は、現在確認できる限りで3階建てであり、垂木にはマングローヴ材が、壁にはサンゴブロックが用いられている。こうした建築材料は、インド洋西海域世界で広く見られるものである。

写真1:
マルドゥカの浜辺 2008年1月23日撮影

写真1
写真2

写真2:
マルドゥカに残る邸宅跡 2008年1月23日撮影

また、興味深いのは、このマルドゥカには、スワヒリ語を喋る老人が数人住んでいることである。彼らは自らの祖先をモザンビークやケニアから連れてこられた奴隷だと認識して、スワヒリ語を流ちょうに操る。実際に、ゲウニエ (N. J. Gueunier) によって1981年にこのマルドゥカで採録された民話は、スワヒリ語によって語られている 。また、聞くところによれば、20,30年前には、もっと多くの人がここに住んでおり、日常的にスワヒリ語が用いられていたのだという。ただし、老人たちは彼らの息子や孫の世代はスワヒリ語を喋ることを嫌っているために、自分たちがスワヒリ語を話す最後の世代になるのだと語っていた。

おわりに[19]

本報告では、ヌシ・ベの歴史――特に1841年のフランスによる保護領化とそれ以降の展開――をインド洋西海域世界の枠組みのなかで再検討してきた。本報告で取り上げた保護領化という一事実は、すでに繰り返し述べてきたように、従来の植民地史研究の文脈でも語られてきたのであり、それとの対比を念頭に置けば、インド洋西海域世界から捉えなおすという本報告の試みは、単に、従来の研究によって見落とされてきた些細な一側面に光を当てたにすぎないという批判があるかもしれない。しかし、この側面に光を当てることでこそ、同時代のインド洋西海域における複雑な政治状況が明らかになる点には留意しておく必要があるだろう。また、保護領化を契機として、ヌシ・ベが以前からインド洋西海域に存在していた「伝統的な」ネットワーク構造のなかにさらに一層、組み込まれていく過程は、既に指摘したようにインド洋海域世界と所謂「西洋の衝撃」との関係について、また、植民地化と現地社会の変容との関係を考察する上で、興味深い事例となるのではないだろうか。



  • [1]^ 本報告は、2007年10月に行われた「マダガスカルの文化的多様性に関する研究会」(研究代表者飯田卓国立民族学博物館准教授、於国立民族学博物館)において、「ヌシベの興隆―19世紀における多重的背景の説明」の題目のもとに行われた報告を下敷きに、その際のコメントを参考にし、また、その後の文献・現地調査の成果を織り込んだものである。
  • [2]^ ペルシア湾、オマーン湾と東アフリカ沿岸部との交換関係の概要については、 [鈴木 2007, 13-15]; [鈴木 2007, 51]を参照。
  • [3]^ インド洋海域世界に関するネットワーク論については、[家島 1993, 33-55] を参照。
  • [4]^ [Jenson 1973]
  • [5]^ [Jenson 1973, 31, 44, 46]
  • [6]^ [Jenson 1973, 46]
  • [7]^ [Jenson 1973, 21-22, n.5]
  • [8]^ [Boteler 1835, Vol.2, 169-170] ([Owen 1833, Vol. 2, 137] は同一箇所を引用。)
  • [9]^ [Dewar and Wright 1993, 434-435]
  • [10]^ [Deschamps 1965, 153-161]; [Brown 1995, 111-132]
  • [11]^ “Of a treaty made by “Aheeko bin Bytuk” and “Boobah bin Funhansh” ambassadors for “Smeeko” Queen of the Sukalavas and His Highness Saeed Seyed bin Sultan ? at Zanzibar 4th Shabani Suffer 1254. as we say we are the poor of god. Nhekoo bin Bytuk and Boobah bin Funhanah” NAUK (National Archives, Surrey, U. K.) FO54/4/60-61.
  • [12]^ Eg. [Reda Bhacker 1992, 54, 151-157]
  • [13]^ [Campbell 2005, 77-78]
  • [14]^ [Deschamps 1965, 153, 164-165] を代表とする従来の見解では、ラダマ1世とラナヴァルナ1世は、前者を親欧的で開放的な君主、後者を禁教政策などによってマダガスカルを一種の鎖国状態に導いた対外的に閉鎖的な暴君として、両者を対極的に捉えてきた。[デシャン1989, 49-50] も参照。しかし、70年代以降、こうした見解は、再考されだし、むしろ、ここで述べたように、ラダマ1世の治世末期には、ラダマ1世自身が欧米諸国の影響のマダガスカルへの浸透を食い止めようとしていたことが指摘されるようになった。そして、ラナヴァルナ1世の治世は、これに連続するものであるという見方が確立されつつある。たとえば、2000年代以降ではマダガスカル史に関するもっとも大部な研究である[Campbell 2005]も、こうした近年の見解を支持している (Campbell 2005, 60)。
  • [15]^ [Brown 1995, 154-155]; [Adi Ajayi 1989, 426]
  • [16]^ 1845年については、資料が欠損している。
  • [17]^ この点に関する既往研究のまとめとして、[鈴木2007, 1-2] を参照。
  • [18]^ PEM (Peabody Essex Museum, Salem, MA, USA) LOG1847W3.
  • [19]^ [Gueunier 2004, 134-145]

  • 参考文献一覧
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