Japan Society for Madagascar Studies / Fikambanana Japoney ho an'ny Fikarohana momba an'i Madagasikara
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「祖先の島・マダガスカルの祭り」

堀内孝 (写真家)

 マダガスカル語で祖先を意味する「ラーザナ」。この言葉を初めて聞いたのは、私が最初にマダガスカルを訪れた1990年、当時タナで泊まっていたホテルのバーテンダー、ウイリーと南部の旅をしたときであった。

 私たちはタクシーブルースに乗り、アンツィラベ(Antsirabe)、フィアナランツゥア(Fianarantsoa)、トゥリアーラ(Toliara)、ベティウキ(Betioky)、アンブヴンベ(Anbovombe)と気の向くままに旅をした。昔プロのギター引きだったという彼は、無類の酒好き、女好きで、ガイド代の前借りをしては夜になると消えた。あまりのひどさに途中何度も別れようと思ったほどだ。そんな彼が、旅の最終目的地に選んだのは、意外なことに、フォール・ドーファン(Fort Dauphin)の山間にある彼の母の生家であった。

 到着すると彼は、私を村はずれにある石碑に案内した。それはコンクリート製で、オベリスク状の高さ2bはあるひと際立派なものであった。アンタヌシ族が墓とは別に祖先を偲んで建てるものだという。その石碑にもたれかかり、彼は今までにない安堵の表情を見せた。どうして旅の最後にここを選んだのかと尋ねると、彼は片言の英語でこう答えた。「ご先祖様にどうしても頼んでおきたいことがあったんだ」。そして祖先のことを、マダガスカル語で「ラーザナ」というのだと教えてくれた。私はその時、彼らマダガスカル人が深く祖先とつながっていることを、おぼろげながら実感した。それから毎年のように旅を重ね、多くの人びとと出会い、様々な祭りを見るうちに、その思いは確かなものになっていった。

 さて、今回紹介した「ファマディハナ」であるが、そんな彼らの祖先への思いが凝縮されたマダガスカルを代表する祭りだ。

 祭りは、乾季の8月から10月にかけて、中央高地のメリナ族やベツィレウ族などが盛んに行う。仮埋葬した遺骨を本埋葬するときや、墓を新築したときなどに催され、墓から遺骨を取りだし、祖先の衣服とされる絹布ランバメーナで包み、弔い直す一種の改葬祭である。

 1昨年、ベタフ(Betafo)郊外にあるフィアダナナ(Fiadanana)村で見たメリナ族のファマディハナは、仮埋葬した遺骨を本埋葬するために執り行われた。

 村には早朝からたくさんの親族が集まった。部屋をのぞくと、「私の名前はニリーナで、ララの息子です」というようにして、集まった親族一人ひとりが自己紹介をしている。この祭りは、久しぶりに再会する親族同志の交流の場であり、結束を固める役割も果たしているようだ。

 自己紹介が終わると、赤米のごはんと牛肉の煮込みが振る舞われた。伝統的なこの祭りの料理である。油がきつく、胆石を患った私にはちょっとつらかったが、彼らはこれが大好物で、濃厚な肉汁をたっぷりご飯にかけてもらってはすぐに平らげ、何度もおかわりをしていた。

 食事が終わると、いよいよ男たちは墓の扉を開けた。中は2段に仕切られ、そこにボロボロのランバメーナに包まれた祖先の遺骨が並んでいる。男たちはツィーヒとよばれる敷物でそれを包み、ひとつひとつ墓の外に出した。そして墓の南にある広場にずらりと並べた。遺骨の数は全部で15体に上った。 親族は思い思いの遺骨を囲み、そっと手をあて、しばらくは祖先との再会を楽しんだ。そしてひとしきり語らうと、遺骨に香水をふりかけ、持ち寄ったランバメーナでひとつひとつ包んでいった。タナやアンツィラベから来た人たちは1枚40万FMG以上もする高価な山繭製のもので包んだのに対し、地元で農業をする人びとは安価なポリエステル製の布で包んでいたのが印象的であった。

 全ての遺骨を包み終えると、親族はそれをかつぎあげ、楽隊のにぎやかな音楽に合わせて墓のまわりをまわった。新しい遺骨、古い遺骨がしだいに混ざり合っていく。こうして死者は、子孫を守りはぐくむ「祖先」というひとつの存在になるのだという。 やがて遺骨は墓に戻され、祭りは終わった。墓の前では親族が列をなし、アフィンヂャフィンヂャウという伝統的な踊りを日が沈むまで楽しんでいた。自然に心が和む、とてもあたたかな祭りであった。

 もう一つ紹介したのは、アラビアのメッカからやって来たとの伝承をもつアンタンバフーアカ族が、7年に1度、金曜の年に行う割礼祭「サンバチャ」である。祭りは昨年10月の1か月間、東部の町マナンザーリ(Mananjary)に点在する8つのチャーヌベ(大きな家の意)を中心に執り行われた。

 この祭りでは、彼らの始祖ラミニアが、メッカからマダガスカルにたどり着くまでの苦難の旅が描かれる。それを子供たちが追体験し、最後に割礼を受け、アンタンバフーアカ族の男の仲間入りをするのである。

 「聖なる週」である最終週に入ると、祭りの盛り上がりは最高潮に達した。ラミニアが乗った船とされるチャーヌベに、水草で編んだ敷物、ムジンガと呼ばれる水がめ、聖水を入れる瓢箪などが、次々に運び込まれた。またチャーヌベの外側には、聖木やラミニアが陸地を探すために放ったという鳥の彫刻が飾られた。その作業は水曜の夕方まで続いた。

 そして木曜深夜、男たちはラミニアがたどり着いた場所とされるマナンザリ川の河口で聖水ラヌ・ミヘーリナを汲み、チャーヌベへ持ち帰った。これは祖先からの祝福として、割礼を受ける子供たちに授けられるという。

 夜が明けると牛が供犠され、頭部はチャーヌベ内に運ばれた。割礼はこの頭部に座って行われる。

 午後2時、全ての準備を終えた人びとは正装し、聖水を先頭に海岸へ出た。海岸は8つのチャーヌベの人びとで見渡すかぎり埋めつくされた。そして彼らは、ラミニアがたどり着いたというマナンザリ川河口めざしてゆっくりとすすむ。やがて到着すると、彼らはその聖なる水に膝まで浸かり、沐浴を行った。

 日没後、割礼はそれぞれのチャーヌベで行われた。子供がひとりひとり中へ入れられ、南東の戸口に置かれた牛の頭部に座り、「エーツォー」という掛け声とともに、ハサミを持った長老から割礼をするポーズを受ける。ポーズだけなのは、ほとんどの子供がすでに病院で済ませているためである。この儀礼を通して今回、1000名を超える男子が晴れてアンタンバフーアカ族の男になったという。アラブの伝統が今に生きる、壮大なスケールを持った祭りであった。

 祖先と深いつながりを持ちながら生きるマダガスカルの人びと。このほかにも、サカラヴァ族の「フィタンプア」、アンタンカラナ族の「ツァンガンツァイナ」など、祖先とかかわりのある祭りは多い。約20の民族集団全てを網羅するのは難しいだろうが、今後もそれぞれの代表的な祭りをひとつひとつ丹念に取材し続けていきたいと思っている。

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