蒲生 康重 (東京情報大学総合情報学部 一般財団法人進化生物学研究所 兼任)
はじめに
この記事は、いつも他の筆者の方が書かれているような内容――いわゆる、マダガスカルのことを多角的に説明して、マダガスカルをより良く知ってもらう――とは、違います。
マダガスカル渡航回数10回。延べ滞在期間約13ヶ月の私のマダガスカルに関する単なる与太話です。
そんなくだらない与太話の中に、もし、皆さんが学び取れるようなものがあれば幸いです。
そもそも何でマダガスカルに?
私が初めてマダガスカルに渡航したのは、1999年8月です。その前は、青年海外協力隊平成9年度1次隊隊員(職種:園芸作物)として1999年7月8日まで、インドネシア共和国の西ジャワにあるチアンンジュール(Cianjur)という場所にいました。
青年海外協力隊隊員だった当時、自分の力不足を痛感していて(今でもしていますが)、帰国したら大学院に入って実力不足を補おうと考えていました。
そこで、学生時代にお世話になった恩師、(一財)進化生物学研究所の吉田 彰先生に手紙を出しました。詳しい内容は忘れましたが、「帰国したら大学院に入ろうと思うのですが、ご助力願えないでしょうか?」みたいなことを書いたと思います。
そして、しばらくして先生からの返事が来ました。これまた、詳しい内容は忘れましたが、内容は以下のようなものでした。
「大学院の件は、わかった協力する。その前に……半年ほどマダガスカルに行かない?」
人にはいくつか、「これが人生のターニングポイントだった」と思えるものがあると思います。僕にとっては、青年海外協力隊参加とこの手紙です。
この手紙は、研究所が母体となって行っている南部マダガスカル森林復元事業「ボランティア サザンクロス ジャパン協会」に海外派遣専門家として参加しないか、というお誘いの手紙でした。
さて、大学院に進学希望しているのに、いきなり名前は知っているけれど、良く知らない場所(それもアフリカ)にいきなり半年くらい行かないかといわれたら、あなたはどう答えますか?
私は、手紙を受け取って、直ぐに返事しました。
「飛ばしてくれるなら、喜んで飛びます!!」
1999年当時、私はまだ20代後半。大学卒業後、直ぐに青年海外協力隊に参加するくらいですから、良い意味で「未知への憧れ」が強い青年、実際のところ将来設計よりその場の好奇心を優先する無謀な馬鹿者でした。それに青年海外協力隊で、すでに2年近く海外で生活しており、それが半年程度延長されるくらい、別になんとも思っていませんでした。(まさかこの後、十数年の付き合いになるとは……)
ラヌマインティ(Ranomainty)地域
そんな感じで、マダガスカルとの付き合いが始まるわけですが、とりわけ、多くの時間を費やしたのは、ラヌマインティと呼ばれる地域でした。
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Fig. 1 マダガスカル地図(●がラヌマインティ地域) |
ラヌマインティ地域とは地図(Fig. 1)の中に示した●の周辺地域です。マダガスカルの南の玄関の町フォール・ドーファン(Fort-Dauphin)から国道13号線を西に走ること約65km、東京近郊の国道なら1時間程度の道程ですが、整備が悪いので2時間~3時間ひたすら車に揺られてたどり着く地域です。ここにある3つの村が、私のメインフィールドになります(Fig. 2)。
Fig. 2 ラヌマインティ概略図
年間降水量500mm以下、“暑い”というより“痛い”日差しが降り注ぎ、さらに乾燥しているため、汗をかいても直ぐに乾いて、気づかない内に脱水症状になる。そんな砂漠みたいな気候の中に、他ではありえない植生がある。初めて訪れた時は、その奇怪な自然に感動したものです(Fig. 3~6)。
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Fig. 3 ラヌマインティ風景 |
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Fig. 4 ラヌマインティ地域の植生 |
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Fig. 5 ラヌマインティの植物アローディア プロセラ Alluaudia procera |
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Fig. 6 ラヌマインティの植物ザァ バオバブ Adansonia za |
そんなラヌマインティ地域には、自然だけでなく他では見られないような変わった施設があります。Fig. 7の写真を見てください。一見普通の村に見えますが、実はこれは「刑務所」です。窃盗から殺人まで、さまざまな罪を犯した囚人たちが暮らしています。私たちは面白がって「世界一自由な刑務所」といっていましたが、逆に言えば「この地域で暮らすこと自体が刑務(罰)になる」ということです。つまり、ラヌマインティ地域は、人が住むのに適さない流刑の地なのです。
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Fig. 7 ラヌマインティの刑務所
一見、普通の村にしか見えない |
こんな罪人が罪を償うために送られる場所に村があることは、ちょっと奇妙に感じるかもしれません。しかし、それなりに理由があるようです。私が、聞きかじった情報を元に簡単にまとめるとFig. 8のような図になります。
Fig. 8 ラヌマインティの“村”の形成理由概略図
もともとラヌマインティ地域は、人が住んでいない(住めない)地域でした。ある時期ある地域で、許容範囲を超えるほど人口が増えます。許容範囲から外れてしまう人間が、そこにいても生きていけないので、他の地域に移動します。農業などができる地域は、当然、すでに他の人がいますので、より条件が悪いところに移動せざるを得ません。そうして行き着いた先がラヌマインティ地域だったというのが理由の1つ。
一方、前記した刑務所の囚人が、刑期を終えて外に出る。しかし、故郷に帰っても自分の居場所がない。さらに服役中に自分の家族も刑務所の近くに越してきてしまっている。行き場所がないので仕方なく刑務所周辺に居つく。これが理由の2つ目。
もう1つ、刑務所の看守やトラックや長距離バスの運転手が、ラヌマインティ地域を気に入り居ついてしまったという、変わった理由。
そんな人たちが、なんとなく身を寄せ合っているうちになんとなく村のような形態になった。これがラヌマインティの“村”と私達が呼んでいる集まりのようです。
マダガスカルで何をしていたのか?
さて、そんなラヌマインティ地域を中心にマダガスカルに何度も足を運んだ私ですが、何のために行っていたのかというと、大きく分けて2つの目的がありました。
1. 森林保全事業-ボランティア サザンクロス ジャパン協会の活動
森林保全事業に関してどのような活動をしてきたかは、他に説明するに相応しい者が今後、どこかの機会で説明することに期待して、ここでは、なぜラヌマインティ地域で森林復元事業を行う必要があるのかを私なりに説明します。
前述したようにラヌマインティ地域には、多くの村っぽい集まりが存在します。“村っぽい集まり”なので、普通の村の構成員が持つであろう「土地への愛着」やそこから派生する「土地を守るためのルール」が希薄です。愛着が希薄なので、地域資源を有効に利用して永続的に活用するより、簒奪的に資源を活用し、利用価値がなくなれば次の土地に移動する傾向が強いです。そのような利用の最たるものは、無計画な「畑作地の開墾」と「薪炭材・材木の搾取」です(Fig.9)。
Fig. 9 地域の自然破壊の原因となる産業 左上:開墾 右上:製材 下:製炭
無計画であるが故、利用後土地は放置され、苛酷な環境のため植物の成長が追いつかず、森の空洞化(砂漠化)が起こるか、または人が利用している成長の早い外来種がその空間を奪って行きます。いわば、ラヌマインティ地域は「世界でも類まれなる自然」が「村っぽい集まりに住む人の営み」によって失われつつある地域なのです。
このような地域で森林保全を行う場合、一番手っ取り早いのは人を追い払ってしまうことです。壊す者がいなければ自然は壊れません。しかし、これは人道面で問題があります。ボランティア サザンクロス ジャパン協会は、別の方法で森林保全を目指しました。「人と森との共存」です。要は折角「村っぽい集まり」があるのだから、こちらから方向性を与えて「森を守るルールを持った村」にしてしまえ!! ということです。
2. 植物調査・研究
植物調査・研究に関しては、「調査・研究」を名目に色々と無茶をしました。ただその無茶のおかげで普通の旅行者では体験できない経験をさせてもらいました。その1つが、「森でのキャンプ」です。
当時、私はマダガスカル固有のゴマ科植物ウンカリーナ(Uncarina)属(Fig. 10)がどのように種を維持しているか、その機構を解明するという研究を行っていました。
Fig. 10 ウンカリーナ(Uncanina)属植物
上:ウンカリーナ アブレヴィアータU. abbreviata
中:ウンカリーナ レプトカーパ U. leptocarpa
下:ウンカリーナ ペルタータU. peltata
紆余曲折を経て、ウンカリーナ属植物の花には種ごとにサイズが異なる部位がありその差が種を分ける重要な鍵ではないかという仮説に至りました。花のサイズの差異=花粉を運ぶもの(送粉者)の違いを示唆するものです。
しかし、当時ウンカリーナの送粉者は判明していませんでした。自分自身で調べるしかありません。何者が何時来るか、まったく判らないものを調べるためには何をすればよいのか……私の出した答えは、短絡的なものでした。
「実際に植物の前で、ひたすら見続けていれば、いずれ現れる!!」
ということで、私は「各種の開花しているウンカリーナを現地で探し、その前で48時間のキャンプを張って観察する」という手法を決行しました。
酷暑と乾燥と強烈な日差しの中、ひたすら1人で花に訪れる動物に注意を払い観察・サンプル採集を行うという、ある意味「荒行」というか「罰ゲーム」を自ら率先して行うという無茶を行った結果、ウンカリーナには花サイズの差に対応した送粉者がおり、それが種を分ける重要な因子であるという結論が得られました。
その結果をまとめたものが私の博士論文になり、おかげで博士号を得ることが出来ました。
ちょっとした事件
色々な無茶と無謀をしてきましたが、その中にはちょっと無理をしすぎたものもいくつかあります。その中の1つを紹介したいと思います。
先のウンカリーナの調査の1つを終えて車で町に戻る途中、乾燥地に生育するヤシを見つけました(Fig. 11)。植物を学ぶ者は、未知のものを見つけてしまったら調べずにはいられないという性は、多かれ少なかれ誰でも持っていると思います。私も、そして同行してもらった横山さん(写真に写っている人)もそういう人間でした。
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Fig.11 事件の発端になった植物ラベネア キセロフィラRavenea xerophila 隣は、お世話になったマダガスカル在住の横山さん |
とりあえず、私達はこのヤシの素性を知るべく、葉の一枚を切り取り、近くの村で現地名や利用法などを聞きに行こうということになりました。
森にある人の通った痕跡をたどり、村人を見つけてヤシについて尋ねました。その村人は「私は知らないが、知っていそうな人は知っているから呼んでくる」と言いました。
私達はその言葉を信じて待っていることにしました。
その結果……
投石器と槍を持った村人、数十人に囲まれ拿捕されてしまいました……
後で判ったのですが、私達が葉を切り取ったのは、採集・狩猟禁止エリアだったそうです。そうと知らずに、ヤシの葉を切り、「ヤシの葉、切りましたよ」と、わざわざ報告しにいくという間抜けな行動をとってしまったようです。
幸いこのときは、間に立ってくれた人(国で派遣された村の学校の先生)がいてくれたおかげで、3~4時間村に監禁されただけで、謝罪と慰謝料(ヤギ1頭分の金額)で許してもらいましたが、もし、そのような人物がいなかったら、または、もし、より厳格に守られている村の聖域だったら、私達はどうなっていたかわかりません。
まぁ、今となっては「フィールド調査には、その地のルールを知るために村人に協力を取り付けなければ、危険に会う可能性が高くなる」という教訓めいた失敗談のネタにしています。
おわりに
このようにマダガスカルは、私にとって数十年の間、日本ではできないような、様々なことを経験し学ぶことが出来た土地であり、博士号を得る材料を提供してくれた土地でもあります。
ただ、私が経験できた様々なことは、現在、政情不安もあり、出来なくなってきています。たぶん、今私の行ったような森でキャンプなんてしたら、下手すれば帰ってこられなくなる事態を招きかねません。これからマダガスカルで研究を行う人は、より慎重な行動を求められます。
早く政情が安定し、私が経験できたようなこと(失敗を含めて)ができる国に戻れることを祈っています。
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